今晩は!!
今日は、宮崎市内のゼビオさんをウロチョロして
キーちゃんがやりたいと言っている
テニス!!
のラケット&シューズがいくら位するのかの相談してきましたよww
初心者セットで15,000円くらい
なに〜〜そんなするのかよ
*倭のバット1本2万円を2年に1度、
キーちゃん大きく成長期だからシューズも半月で交換だろうなと思いながら。
ヤマちゃんの野球に僕も入れ込んだの5年生からだったので、そろそろキーちゃんにも一生懸命になるかねww
そんな中、購入したのは
カーブ持ち方ボール!!
ちょっとかっこよく写真撮って見ました!!
ボールの上に指の持ち方が書いているだけのボールですが
ヤマちゃんは大満足!!
ビュンビュン カーブを投げたいかもしれませんが。
ノーコンPITCHERなので。。。
当然!!ストレートの練習です!!
中体連 県太会にいけて本当に良かった。
もし、行けなかったら何も楽しみなかったかも。
デワデワ、ハウス内ノ、トマトが倒れるくらいに成長しました!!
写真は後日。
m(_ _)m
2011年10月18日
カーブ練習開始!!
2011年10月16日
写真ナシ( ・`д・´) ヤマと進化系!
こんばんわッス!
タイトルの件は!夜の練習場で起こりました!
でも本日は子ども達もお父さんお母さんお疲れ様でした!
すっごく楽しい1日でしたね!
さすが「家庭の日」!
朝早くからの奉仕作業!
それも、みんな一生懸命ではじめてじゃないかな?
男子テニス部から女子テニス部までの長い間をみんなで作業だったね。
それでも結構クタクタだったのに!
次は!新田中野球部空き缶回収!開始!!
で!回収場所に行ったら間に合わなかった><;
会長ゴメンナサイ!<<<<宮ケ平にそっと置きました!
なんだかんだ言いながらこれが10時前
その後も続きます!
次は、MarO先生の登場!
そそ!陸上の先生ですっごく大好きな先生です!
ここだけの話、僕と同じで少し白髪なんだよ^^
で、厳しい練習!
それも駅伝ですぜ!
なんで今日午前中で
奉仕作業>空き缶回収>駅伝???
と僕自身もびっくりです
やれることをやらないといけないよね^^
みんなで新田をハッスルして行きましょうね!
デワデワ b
僕の忘備録でした。
タイトルのヤマト進化系は!
少し教えます!
プレートの踏み方を10度くらいですが変えてみました。
そのことにより前への傾きを作ることができたと思います。
実際、倭は「いいちゃねえか」とのことらしいです。
回転を左付き足と右蹴り足でと思っていましたが難しいですね。
タイトルの件は!夜の練習場で起こりました!
でも本日は子ども達もお父さんお母さんお疲れ様でした!
すっごく楽しい1日でしたね!
さすが「家庭の日」!
朝早くからの奉仕作業!
それも、みんな一生懸命ではじめてじゃないかな?
男子テニス部から女子テニス部までの長い間をみんなで作業だったね。
それでも結構クタクタだったのに!
次は!新田中野球部空き缶回収!開始!!
で!回収場所に行ったら間に合わなかった><;
会長ゴメンナサイ!<<<<宮ケ平にそっと置きました!
なんだかんだ言いながらこれが10時前
その後も続きます!
次は、MarO先生の登場!
そそ!陸上の先生ですっごく大好きな先生です!
ここだけの話、僕と同じで少し白髪なんだよ^^
で、厳しい練習!
それも駅伝ですぜ!
なんで今日午前中で
奉仕作業>空き缶回収>駅伝???
と僕自身もびっくりです
やれることをやらないといけないよね^^
みんなで新田をハッスルして行きましょうね!
デワデワ b
僕の忘備録でした。
タイトルのヤマト進化系は!
少し教えます!
プレートの踏み方を10度くらいですが変えてみました。
そのことにより前への傾きを作ることができたと思います。
実際、倭は「いいちゃねえか」とのことらしいです。
回転を左付き足と右蹴り足でと思っていましたが難しいですね。
2011年10月09日
倭!まさかの柵越えホームラン!!
2011年10月06日
西都児湯地区中学校秋季体育大会!
さてさて、秋の中体連の季節ですね。
倭も中学2年生、部活動では最後の1年間。
先日はポカリスエット杯、高鍋西さんと素晴らしい試合ができたのに、決勝戦では雰囲気もつかめず「惨敗」。
高鍋西さんに勝つことだけを目的に試合に望んだこともあると思います。
やはり、志は高くのぞんでもらいたいですね。
さてさて、今週末10月8・9・10日は中体連!
今までの成果を発揮し、後輩とも協力して勝ち取って欲しいですね。
新田中学校の予定は
10月8日第1試合で「三納中学校」さん。
どのようなチームかわかっていませんが、
やはり西都市はレベルが高いので油断せずのぞんで欲しいです。
それと、季節の変わり目だから
「風邪」や「体調不良」にも要注意ですね。
親も子どもも一緒に参加する「新田」が大好きです!!
タグ:中体連
2011年10月05日
次に進まない書物
*少しだけでも何かに繋がればとという思いから、僕が宮崎にいて経験し考えたことをこれから書いていこうと思います。
内橋克人編
大震災の中で
私たちは何をすべきか
岩波新書
を拝読したく購入させていただいたのは9月25日の南相馬での「ひまわりプロジェクト」へ参加した際でした。
これまでは、震災に関する情報を信じることなく、自分の信念で活動してきました。
そのためもあって、新聞やTVの報道にも疑問は多くも自身の活動を見直すことは少なかったです。
上記書籍を拝読し、44頁からまったく進まなくなりました。
以下、引用いたします。*誤字などあればご指摘下さい。
文明の転換期
池内 了
寺田寅彦は、昭和八年(一九三三)に起こった三陸津波の際に書いた「津浪と人間」(昭和八年)においては、「災害に関する科学知識の水準をもっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろう」と書き、そのための教育が必要と述べていた。「天災は忘れられた頃に来る」の言にもあるように、天災をきちんと記憶し伝承し教育すれば災害を防ぐことができると考えていたのだ。
しかし、最晩年の昭和一〇年に発表した「災難雑考」においては、「あらゆる災難は一見不可抗力のようであるが実は人為的なもので、従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減し得るものだという考えをもう一遍ひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがために却って人間というものを支配する不可抗な法則の支配を受けて不可抗なものであるという、奇妙な廻りくどい結論に達しなければならないことになるかもしれない」と書いている。その理由は、「いくら科学者が防止法を発見しても、政府はそのままにそれを採用実行することが出来ないように、また一般民衆は一向そんな事には頓着しないように、ちゃんと世の中が出来ているらしく見える」という絶望感があったためである。
日本は地震や津波に何度も襲われてきたにもかかわらず、その度に多くの犠牲者を出し、多大な財産を失ってきた。それを見れば、災難は「人為的」なものであると断じざるを得ず、そこから何も学ばない人間について寅彦はシニカルな気分に陥っていたのだ。彼が使った「災難の進化論的意義」や「優生学的災難論」という言葉がそれを物語っている。そして、「このまとまらない考察の一つの収穫は、今まで自分など机上で考えていたような楽観的な科学的災害防止可能論に対する一抹の懐疑である。この疑いを解くべき鍵はまだ見つからない」(「災難雑考」)と、問題を投げかけたまま世を去った。
おそらく、今回の震災や津浪の災害や原発事故が一段落すれば、数多くの「科学的」な安全対策や災害防止策が出されるだろう。しかしながら、それは不充分なまま、あるいは予算を出し惜しんで小手先のまま終わるのではないか、そして再びこのような悲劇を繰り返すのではないか、それが最も危惧される点である。寅彦が抱いた懐疑の淵源もそこにあった。
(以下、続く...)
*現段階でこのページ以降へ読み進めないため。
上記引用させて頂きましたが、この文章を理解するために何度も読み返し、
経験、対策、いかに考えるかを自身に問いています。
繰り返される災害を人災として唱えたことを僕もしっかりと受け入れていきたい。
内橋克人編
大震災の中で
私たちは何をすべきか
岩波新書
を拝読したく購入させていただいたのは9月25日の南相馬での「ひまわりプロジェクト」へ参加した際でした。
これまでは、震災に関する情報を信じることなく、自分の信念で活動してきました。
そのためもあって、新聞やTVの報道にも疑問は多くも自身の活動を見直すことは少なかったです。
上記書籍を拝読し、44頁からまったく進まなくなりました。
以下、引用いたします。*誤字などあればご指摘下さい。
文明の転換期
池内 了
寺田寅彦は、昭和八年(一九三三)に起こった三陸津波の際に書いた「津浪と人間」(昭和八年)においては、「災害に関する科学知識の水準をもっと高めることが出来れば、その時にはじめて天災の予防が可能になるであろう」と書き、そのための教育が必要と述べていた。「天災は忘れられた頃に来る」の言にもあるように、天災をきちんと記憶し伝承し教育すれば災害を防ぐことができると考えていたのだ。
しかし、最晩年の昭和一〇年に発表した「災難雑考」においては、「あらゆる災難は一見不可抗力のようであるが実は人為的なもので、従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減し得るものだという考えをもう一遍ひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがために却って人間というものを支配する不可抗な法則の支配を受けて不可抗なものであるという、奇妙な廻りくどい結論に達しなければならないことになるかもしれない」と書いている。その理由は、「いくら科学者が防止法を発見しても、政府はそのままにそれを採用実行することが出来ないように、また一般民衆は一向そんな事には頓着しないように、ちゃんと世の中が出来ているらしく見える」という絶望感があったためである。
日本は地震や津波に何度も襲われてきたにもかかわらず、その度に多くの犠牲者を出し、多大な財産を失ってきた。それを見れば、災難は「人為的」なものであると断じざるを得ず、そこから何も学ばない人間について寅彦はシニカルな気分に陥っていたのだ。彼が使った「災難の進化論的意義」や「優生学的災難論」という言葉がそれを物語っている。そして、「このまとまらない考察の一つの収穫は、今まで自分など机上で考えていたような楽観的な科学的災害防止可能論に対する一抹の懐疑である。この疑いを解くべき鍵はまだ見つからない」(「災難雑考」)と、問題を投げかけたまま世を去った。
おそらく、今回の震災や津浪の災害や原発事故が一段落すれば、数多くの「科学的」な安全対策や災害防止策が出されるだろう。しかしながら、それは不充分なまま、あるいは予算を出し惜しんで小手先のまま終わるのではないか、そして再びこのような悲劇を繰り返すのではないか、それが最も危惧される点である。寅彦が抱いた懐疑の淵源もそこにあった。
(以下、続く...)
*現段階でこのページ以降へ読み進めないため。
上記引用させて頂きましたが、この文章を理解するために何度も読み返し、
経験、対策、いかに考えるかを自身に問いています。
繰り返される災害を人災として唱えたことを僕もしっかりと受け入れていきたい。